季節はいつの間にか変わっていた。咲いたと思った桜は昨日の雨でもう散ってしまった。僕の見た光景は美化されて、何度も頭の中に浮かび上がる。
自然ってうまくできているなぁ、なんて思ってしまう。

今の世の中において、学ぶべき事の半分は、混沌とした情報の渦の中にある。しかし、仮にそこにある全ての知識を得たとしても、彼は未だ完成しない。
なぜなら、もう半分が自然の中にあるからだ。
ここでもまた、どちらかに片寄るのではなく、二つの間に立つ事が重要だ(これがとても難しい事であるのは説明するまでもない)。

僕らの足元は一見固まっているようで、深いところではその実、常に流れているのだ。

                                                                                                                                                                  • -

ちょっと前まで抱えていた妙な焦りや使命感みたいなものが、変わってきたことを実感している。僕は自分で思っている以上にイッパイイッパイになっていた。
焦っていることに焦っている状態だったとでも言おうか。それで動こうと思っても到底叶わなかった。
恐らく肩の力が抜けたのだろう。そうしたら、自分の状況を俯瞰して見られるようになった(関係ないが、他人を俯瞰して見るのは実はとても簡単なのだ。これに気づいていない人は多い)

                                                                                                                                                                  • -

ここ何ヶ月かで、他人に対する配慮が欠けている事を思い知らされた。
僕は接客業を仕事としているが、本当の意味で相手を思い遣っていなかった。ただ職務として客を迎えることを演じていて、その自分に酔っていただけだ(またまた関係ないが、最近のカフェではよく見られる光景だ)。
しかし、その事に初めて気づいたのは仕事ではなく、自分に一番近い他人が常にそばに居るようになってからだった。相手のことを真に思い遣る時、自我は消滅すると言っても過言ではない。
つまり、人はあまりに自己中心なのだ。相手を自分の視点からしか見ようとしない。そういう時、相手に自分の気持ちは伝わらない。

しかし、現代において人はみな自己中心的な考え方をしている。これは社会がそのような流れであるから逃れ様が無い。具体的にどの部分が影響しているとはまだ僕には言えないけど、異物(これは右でも左でもなく、日本人の気質に合わない物)が入り込んで来たことが原因であると思う。
同時に、日本人は他人に対する配慮を、言わば眠った遺伝子として持っている。そのせいで、なんだかぎこちなくなっているのも確かだ。

気づくのと気づかないのでは、大きく違う(この答えは自然からのみ得られるということを注意しなくてはならない)。

                                                                                                                                                                  • -

自分を俯瞰して見るというのは、こういう事を言うのだろう、と思った。