どうして世に諦めを持たなくてはならないのか。何物も変わらぬ物は無い道理は銘じているが、私は諦められない。
独りの明け方に頬には涙が伝う。この世の悲しさ、辛さ、悔しさ。
私は私の周りをこうさせた者を憎み恨む。私は情報化社会によって情熱を奪われ、資本主義によって辱められたのだ。
何事も無制限であるのは、人間を堕落せしめる最たるものだ。ああ、なぜ我ら、仏を神を捨てたか。多くの者はそれさえ知らぬ。
果たして私達は今日幸福であろうか?
嘘つきで狡猾で邪悪な者が、陽の光を浴びてニヤニヤしている。

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私は消費者の多さに驚いている…彼らは自分とは明らかに違う異質なものを持っている。
“誰か”にディレクションされるのを、自ら選択していると勘違いしている。確かに選択してはいるが、“誰か”による範囲付けの内での話で、その範囲付けを自分でしてはいない。
流行は大衆の中にも玄人風(横文字で言うならスタイル)衆の中にもある。そこには“誰か”によるディレクションが働いている事がほとんどだ。
彼らの背骨が無く主張が二転三転するのは、仕方のないことなのだ。

私は広告と言うものに飽きてしまった。暫くはその世界に酔っていたが、段々と抵抗力がついて冷静になってくると、「これもまた例の奴か」と気づいてしまったのであった(一体私は飲めないと思っていたが実はよく飲める方だった。ただ酔いというやつと安くて不味いがとてつもなく嫌いなので飲まない)

今は扇動家にでもなろうかと思っている。「全く芸術ではあるまいし、装飾に何の意味があろうか」というのを口癖にして。