僕は宗教に興味を持ちつつあります。でもそれは思想や信仰ということについての興味であって、どこかの宗教に入りたいというわけではありません。
第一、僕はカミサマを信じていないので、その権利はないと思われます。世の数え切れないほどの神を信仰する人々を敵に回すようなことを言いますが、神は実在しません。
それは個人の中に発生する想像上の人物であって、どこにも存在しない。信じていたからといって死ぬ時に彼によって現実的に救われることはないし、奇跡というのは偶然とも言う事ができるのです。
それは死の恐怖を多少やわらげてくれるだけに過ぎません。見方によれば(それはもっとも僕のような人間から見れば、ですが)人間は神という存在を自分の死の恐怖をやわらげるために利用しているとも言えますね。

僕はかなり思考があいまいな人間です。様々なものから影響を受けてはその考えを変え、時には以前と180度違う方向にいくこともあります。発言にも何にも一貫性というものがないわけです。
しかし、この宗教というものにはほとんど必ずといっていいほど戒律やら経典といったものが存在します。これは何かと言えば、「こういう行いをすべきだ。こういう行いはしてはいけない。」ということがまとめられているものです。
信者はそれを読み、その教えを守ることが必須なわけですから、自然と思想が統一されてくるのです。これはもしかしたら僕のような人間にとってはいいことなのかも知れない。でもさっきも言った通り僕はカミサマを信じていないから仲間には入れてもらえないんだろうな。

中世(近世?)ヨーロッパの免罪符から現代の謎の壺にいたるまで多種多様なものが「宗教」の名を悪用してきました。いや、正確には悪用したのはその宗教を信じる人間のごく一部ですね。彼らは無意識的に、または意識的に自分の信じる神に背いていたわけです。
こう見ると宗教というものはまだ完璧なものにはなっていないようですね。宗教戦争は続いているし、矛盾は抱え込んだままだし。

まぁ確かに「神はあなたの中に」いるのでしょう。何にせよ、興味深いことに変わりはありません。

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学校の近くに建設途中の高層マンション(群)があります。登下校の道がその建物に沿ってあるので、チラチラ横目で見ながら自転車をこいだりしています。
ある日の放課後に、だらだらと自転車をこぎながらそのマンション(群)を眺めていました。その時ふと目に留まった、できたばかりの22階建てのマンションは、何か違う印象を僕に与えました。
刹那の内に(この言葉を使いたかっただけ)「これは芸術だ」と気付きました。
人の生活のないそのマンションはどう見ても1つの芸術作品でした。特に芸術的な装飾や構造をしていたわけではなくて、「しばらく来ない内にいつのまにかここに建っていた」といった感じの普通の高層マンションです。
マンションに人の生活の影が見えないだけでこんなにも芸術的に見えるとは驚きでした。

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「紅葉を散らす」という言葉はとても美しいですね。日本的で趣が感じられます。

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追記:羊をめぐる冒険を読み終わりました…感動しました。この世界観(僕はあまりこの言葉が好きじゃない)を作り出せる村上春樹は一体どんなことを経験してきたんだろうと思いました。
世界の終わりとハードボイルドワンダーランドやねじまき鳥クロニクルで感じたのと同じ絶望を感じました…たぶんこの絶望が村上春樹が見ている「絶望」なんでしょうね。

最近トニー滝谷が映画になって、その監督が何かの雑誌のインタビューで「村上春樹の作品には表情が見えない」と言っていました。いや、これはまぁ絶望の話とは関係ないんですけどね。
この一連の作品が映画になったらとても興味深いものになるだろうと思います。
ちなみにトニー滝谷は見てません。

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追記2:結局モノゴトはなるようになるし、僕はそれを知っている。問題はそれが他人にとって少し早い(先進的である)という点と、それについての説明のしようがないという点だ。