今日は寝坊したから授業出るのやめました。こんな調子では単位もらえませんね…。
常に真面目でいる(怠慢をしない)のは難しいです。トルストイの悪魔を読んで、主題から少し外れてはいるけど、こう思いました。
これを読んで、“愛の対象からの分離”と言うアイディアが浮かびました。つまり、愛は対象と結びつかない、結び付けてはいけないということです。
と言っても僕には確固とした思想がないから、この考えを人生に取り入れるのは難しいのですが…ただこういう考えもアリだなと思ったのです。

話は変わりますが、インド仏教における哲学と古代ギリシャにおける哲学の違いは、奴隷制の是非と俗世に留まることの是非にあると思います(古代ギリシャのことをよく知らないで書いています)
僕の記憶では、古代ギリシャでは奴隷制が認められていたので、諸芸術家や哲学者は何不自由なく1日中活動に打ち込めたそうです。
一方、インド仏教は平等が認められ、世俗での生活を捨てることが必要とされたので、「物を所有する」ということがほとんどない中で活動をしていたそうです(しかし、これはあくまで自発的なものなのです)
双方の社会的背景が違うのでこれらの差が生まれてくることは当然ですが…。

トルストイの言うのは部分的禁欲であって、それは世俗を離れないキリスト教的思想からしても明らかです(キリスト教の中で完璧な禁欲主義の派閥があるのかは知りません)
一方、インド仏教では徹底的禁欲が求められる、と言うかそのような志向を持っているわけです。

僕はできればインド仏教的な方法を取りたいと考えています。しかし、現在の日本の社会的状況から言って、それはなかなか難しいようです。
とは言え、現代においてはその可能性はゼロではありません。僕は望めばインドに行って、然るべき場所で学ぶことができるのです。
それでもそうしないのは、様々な欲望が僕をとらえているからです。

ここで過去を振り返ってみると、大切なことを忘れていました。僕は自ら作り出した法則にのっとって行動しようと決めていたのです。だからインド仏教もトルストイズムもその一部にしか成り得ません。
もっともっと学ぶことが必要です。

「己を戒めるのは、己しかいない」というのが、今の僕の考えです。