文字を書くこと…そこには何があるんだろう?
言葉それ自体には、何もない。ただの記号、形だ。僕らはそこに意味を加え、理解している。
文字を書くことは、何かしらのアウトプットだ。記録であると同時に、一種の記憶だ。感情だ。表現だ。
文字を書くその時、何らかの意思が働いているはずだ。僕は、書くことによって、その意思を見出すことがある。また、その意思をくまく調べることで、自分の中に浮かんだ形や感情なんかをより鮮明にする。
意思、意思か。そこには意思があるんだ。

                                                                                                        • -

おいしいものが食べたい。僕は高級料理が食べたいと言っている訳ではない。“しっかりした”料理は、おいしいのだ。舌がそれをちゃんと知っている。
栄養が足りていないことを自覚している。そして、これら全てが、この家では不可能なことを知っている。頭で知ったのではない。体で知ったのだ。僕は知性だけで生きているのではない。

それにしても、体で知ったことは、なかなか強烈な記憶を頭に焼き付けるものだ。良し悪しの隔てなく…。
しかし、重要なことや“大きなこと”は、それ以上の威力を持つ事がある。これはつまり、頭で知るという意味だ。
このことについては、一概には言えない。やや抽象的でもある。そして、今の僕の頭はごちゃごちゃだ。でも意思だけはある。頭の方のコンディションを考えないと、うまくいかないんだなぁ。

                                                                                                        • -

「歌唱力」というのが最近になってようやくわかった。よく耳を澄ませば、すぐにわかることだった。

ところで、僕が今、歌について考えていることは、声の楽器的な出し方だ。現在の主な歌唱スタイルは、メロディーに歌詞を付けるのだ。
ハミングやスキャットではなく、そこに必然性を求められるような、声の出し方。
ビョークがやったのは、ちょっと違う。僕が求めているのは、声そのものを楽器とすることだ。

そもそも、なぜこんなことを考えているかと言うと、ボーカルが入る曲は、そればかりに聴き入ってしまい勝ちだからだ。
僕は、ボーカルが歌詞のついたメロディーを歌う場合、その曲で一番主張したいことはそこ(つまり、歌詞)なんだと思う。
また、ドラムやギターをメインに持ってきたい時には、インストやソロの形が取られる訳だけど…やはり、歌は楽器とは別のものと理解してしまうので、いろいろな差はある。
歌を声とは別物にすることが必要なのだろうか?でも歌は、元々声だ。僕らは自然と「声」と理解してしまう。
うーん…わからない。吉田アミさんが気になります。

これは別の話だけど、引き算の演奏というやつも気になっている。

「無音」というのは、存在しないらしい。有名な話で、ジョン・ケージが無音を聴こうとして無響室に入ったが、低い音と高い音(心臓の音と神経の働く音らしい)を聴いたというのがある。
彼が何故それに気づかなかったかと言えば、その音に慣れてしまっていたからだ。
つまり、慣れというのは、有を限りなく無に近いものにする。これは、当然の結果だ。しかし、そこに何かが潜んでいるのだ。
今、改めて「そこ」を観察することで、いろいろなことに気づくことができるだろう。
でもこれは僕が昔から言っていた事とそう変わりないのだけれど…「普通」を疑うことだ。