やはり僕の生きる意味(人間の生きる意味と言ってしまうと、偉そうに聞こえるから言わない)とは、何か(思想、芸術、そこにあるはずのモノ)を残すことにあるらしい。
そして、今さっきは控えたが、これは明確に書いておきたい。

「だからこそ、人間は続いて行くし、繰り返すんだと思う。」

えーつまり…これが僕の答えだ。「だから何だ」ってこともはっきりしてないし、一応、今のところと付け加えておくけども。
うーん、昔の人はこのことを「悟る」とか「啓示」とか言ったのかなぁ。

僕が残すべきものは、まだ明らかになっていない。作品かも知れないし、あるいはこの事実を誰かに知らせること(つまり今この瞬間。しかし、そうだとしても僕はまだそれをわかってない)かも知れない。

このことは、概念では決して“わからない”。実感した時に、初めて“わかる”。
論理的・科学的に伝えることは、ある程度までしか伝え得ない。なぜなら言葉は自分の内にあるものを外部化(翻訳化とも言えようか)するからだ。そこには必ず誤差が生じる。
アインシュタイン相対性理論を発見したが、その理論を100%理解しているのは、アインシュタイン本人しかいないはずだ。
あまり現実的ではないが、「怖い」という感情を持ったことがない人に、それを言葉で伝えるのは無理だ。
僕は繰り返し同じことを言っているに過ぎない(これからのテツガクシャは呪文を語るのを辞めるべきだ)

忘れてはならないのは、僕はまだ何も成していないことだ。

さらに、今日発見したことは、恐らく“進むべき道”は各人にある。ただ、悟ると言うか、それに気づくことは必要だ。
いつかも書いた話だけど、古代ギリシャの文化人というのは、生活のほとんどを奴隷に頼っていた(やらせていた)らしい。これに対する新たな解釈は、彼等はもしかしたら、自分自身の“道”を知っていたのかもしれない、ということ。
インドのカースト制なんかもそうなのかもしれない。仏陀は彼等を解放に導いたが、それは真の意味での解放ではなかったのかもしれない(彼の弟子全員が悟りを得た訳ではないと思うから)
これを選民思想と呼ぶ人もいるだろう。見方によってはそれは正しいかもしれない。でもそこに「優越感」とか「貴賤の感」が生じてはならない。

うーん、まとまってはいないけど、まとまってきてはいるかなぁ。

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世にはご苦労なことに、僕のような人間を、なんたら症候群とか名付ける先生がいるらしい。
しかし、残念ながら論文は書き直しだ。なぜなら彼は、僕や“僕ら”の体感したことを体感せずに、つまり“何たるかを知らず”にそれを書いたからだ。

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追記:確かに、この答えが何を意味するかはわからない。でも僕は、それだけでなんだか涙が出てくる。