四季を受け入れることは(自然の移ろいを拒否などできないから、仕方のないこととも言えるが)、言い換えれば、それまで親しんできたものとは違った異質な物を受け入れることだ。

争い対立することは無駄である。ならば、互いに手を取り合い、共に良き方向に向かうまでだ。僕たちの先祖がずっと昔に達した結論だ。

そして、今日の僕たちには、生まれながらにしてこのような能力が備わっている。僕たちが作り出した社会も、同じように成り立っている。

                                                                                                                        • -

見えすぎてしまうことによるストレスがある。たまに損をしているんじゃないだろうかと思う。でもそんなことを思っても、一度開かれてしまったものが閉じる事は無い。これが僕だと受け入れる。いや…むしろ喜ぶべきだ。
例えば、物欲に動かされて、アルバイトに明け暮れて、それで得た収入でラッドミュージシャンの服を買って満足する、なんてことは僕ではない、もっと他の、そんなことで満足できるような人がすべきことだ。
服と音楽の融合?それがどうしたと言うんだ?僕は音楽からその雰囲気だけをかすめとって音楽だと言う奴が嫌いだ。

                                                                                                                        • -

自然と溢れ出た言葉が好きだ。「寒いなぁ」とか「空がきれいだなぁ」とか。この場合もやはり、言葉の雰囲気が好きで言うような人間は嫌いだ。言葉は記号に過ぎない。
感情の純粋な表現…いや、それは表現ですらないかも知れない。とにかく、そこに生命の美しさの断片が感じられるのだ。
しかし、なぜ雰囲気屋なんて人間が居るのだろう?僕は彼らから悪意に似たものを感じる。
きっと彼らは無駄な物を詰め込まれたのだろう。誰によって?メディア、感染する悪意(同時に善意も他人に感染するのだ)

                                                                                                                        • -

追記:生まれて初めてネットカフェに行ってきました。幕張の某ホテルの50階ぐらいのところにあって、景色がとても綺麗でした。店自体も場所柄か綺麗だし、すごしやすい空間でした。
でもなぜか伝票には「女性1名」と書かれていました…じゃあ僕は岩盤浴(女性限定らしい)に入れたのか!せっかくの機会だから入っておけば良かったなぁ(逮捕)

                                                                                                                        • -

追記2:気持ちはすごく前向きなんだけど、体の方が追いついてないなぁと実感しました。ちょっとセケンから離れすぎたか。

それにしても、みんな自分のことより他人のことの方が気になるみたいだなぁ。誰かと会えば、共通の知人である第三者を揶揄したり…僕は自分のことで精一杯だ。

                                                                                                                        • -

追記3:僕は自分の能力相応の人格を持たなくてはならない。今は生まれ持った能力が、僕自身を追い越している。いつも僕は、自分自身に遅れを取っているような気がする。
この能力を誠意を持ってコントロールできるようになること、具体的な形で提示できるようになること、が必要だ。