相変わらずダラダラとよくわからない日々を送っています。全て不明瞭、かつ、足は地を離れたかのように見えます。
語る言葉は何年前かの僕が既に使ったものだし、見るもの聴くもの全て奥までは浸透してこない。とても表面的だと言えます。
最近はギターが全然弾けません。元からそんなに弾けないけども、誰かの曲を弾くのにも興味が持てないし、かと言って、メロディーやリフを弾いても楽しくない。
だから手にしてもすぐに離してしまいます。ただ、スタジオでフィードバックを聴いてる(演奏してるのは自分ですが)時はすごく楽しいです。今はそういうトキなんだろうか?
僕は、大友良英氏の影響をすごく受けているみたいだけど、それは単に感覚からで、言葉(哲学や理論)からではない事は確かです。
いま1つ、バンドの話が持ち上がっているけど、今の僕が、例えばACIDMANみたいな曲を作れるだろうか?まぁ以前よりも近くなったことは確かだけど…それは言葉の上であって、音楽の話じゃあないからなぁ。
要はいくつかのブロックが組み合わさっただけ…そんなのが曲だって?いやあ、でもやってみるだけやるべきか。そのあとで悩むべき問題か?
あとは歌を歌えば、それが曲の核となるという認識…この話もあとで悩むべきかな。対位法を取り入れることができれば、面白いものが作れそうだなぁ。
downyKammerflimmer Kollektiefの曲の持つ雰囲気の秘密は、半音の差だとわかってしまったもの、退屈だ。なぜなら、謎は探っている時が一番面白いから。

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またツァラトゥストラを読んでいて、昨日やっと下巻に入ったけども、内容を全然わかって無いと自覚している。個々の話をバラバラに理解する事はできても、1つの話として見えてこない。
まぁ一番の問題は、誰かの手によって翻訳されたものを読んでいる事だ。うーん…そう考えると、音楽はいいものだなぁ。

何を考えているんだか、全然わからない文章だなぁ。実際書いてる本人は霧の中だから、当然といえばそうなのだけど。

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追記:衝突(比喩でも実際でも)の無いところに平和があると思ったら、それは間違いだ。全く同じ人間はいない。どうして自分と同じような人間がいることに耐えられよう?そして、更に間違ってはならない、と言うか自覚しなくてはならないのは、自己の内でも衝突は日々起きている事実である。
平等と言う言葉に恐怖を覚えないのは何故だ?