僕は一人で歩いている。一月の空気が重々しくはりつく。ためしに去年の事を思い出そうとしてみながら、確かな変化を実感している。
あちらの方から風が吹いてきた。僕は身震いをした。それと同時にある矛盾を感じた。
ポケットに深く突っ込んだ手は暖かい。でも、そうだ、元々寒くなんかなかったんだ。
「きみたちには存分に楽しませてもらったよ。」
僕は立ち止まる。右手でドアを開ける。暖かい空気に包まれる。
深呼吸をして、その幸せを体の隅々まで行き渡らせる。
そして、こう言う。
「ただいま。」

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僕達がこのところ度々ひっかかるのは、“スタイル”とか“ステータス”ってやつだ(僕は以前、コヤツラのことを雰囲気屋とか読んでいた)。
中学生や高校生がやるならまだしも、大人になってもこの“スタイル・ステータス”を捨てられない人たちがゴマンといるらしい。
彼らは誰も同じ殻を身につけて、魂を持たず、自己陶酔に耽っている。
これは憧憬であり、魂が得られない事から起こる転換であり、依然生徒である証拠であり、麻薬であり、商業主義であり、錯誤である。
ただ、“スタイル・ステータス”が通過点として存在しているという可能性は否定できない。
殻を脱ぐ時は自分の手が要るし、それなりの力も要る。場合によってはそこに痛みも加わる。間に他人が割って入ったとしても、最終的には自分でやるしかない(一番大変なのは、ここなんだろう)

とにかく、僕が個人的に言いたいのは、“スタイル・ステータス”が口を開くとすぐに黙らせてやりたくなるってこと。

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記憶装置としてのブログ。無くなればキオクソウシツ。それを善しとするのなら楽しみたまえ!

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服に関して、僕が常々考えていたことと、彼女の実のある意見からすると、無駄を省いたシンプルなデザイン、かつ上質であるものがいいようだ(ちなみに、これは僕達のパーソナルな部分を含めた解答であるからして、全ての人に当てはまることはないと思う)
シェイプに関しては、資本主義によるチューニングに合わせるのがいいだろう。そこで文句を言ったってどうにかできる訳でもないし、実際自分の目もそのように変化しているのだから。
長く着られる良いものを買っておくのは、理に適っているのかも知れない。なぜなら、ファッションの世界はとても狭いから、サイクルはすぐに一周してまた帰ってくることになる。流行りが廃ってしまっても、眠らせておいて、またその時がきたら着ればいいのだ。
話とは違うけど、コックコートが手に入って嬉しいです。