好き嫌いがあるのは大切なことだ。でもそういつまでも言っていられない。好き嫌いと言う二極のみの世界が通用するのは、偏った、狭いところだけだ。
単なる自己満足に過ぎない。他人にとっては何でもない。当たり前だが、自分と他人の間を通わすには言葉なり仕草なり何らかのツールが必要なのだ。表情も動作もない人の心を読み取るのはほとんど不可能だ。
第三の観点は自己と他人との間、もしくは不特定多数の間にある。「あなたは気に入るけど僕は嫌いだ」とか「彼らは好きだろう」と言う事だ。
(しかし、これは第三の観点に関する機能の一部の説明にすぎない)

私は自分の主張を天に向け掲げている。
私の胃は長い時間をかけて億の主張を消化した。果たしてこの手に一つの主張が現れたのだ。

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何一つ整理されない。不確定なまま進むしかない。こういう時はターゲットを最小限に絞るのがいい…でもこのまま一生を終えるものなのかも知れないと思ったりもする。

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芸術が大好きと言う人間はゴマンといる。
しかし、芸術家は、芸術家と呼ばれる内にもほんの一握りしかいない。では芸術家でない芸術家とは何かといえば、書画青年であり、文学青年であり、批判家であり、コピーバンド少年なのだ。
彼らは芸術家とは言えない。最近になってそれを自覚して自らの職業を違った名で紹介する人もたまにいる。
芸術家の生活の糧は何かと言えば、百パーセント彼らの芸術的能力だ。偽者は芸術以外で飯を食っている。
そういうところを、未来の卵はわかっていなかったりする。自分が無精卵と言う事も知らないように。